けやきのつぶやき(別題:私は校庭のけやき)
新井太郎 作
私は大正九年十月、この学校が入間尋常高等小学校と呼ばれ、校舎の増築が行われた時、中入曽出身の島崎寿郎校長さんの着想により記念樹として植えられました。校長さんは、教え子の中から特に元気者だった権現堂の新七ちゃん(新井七郎さん)、角の政ちゃん(宮野政吉さん)、高見の宗ちゃん(宮野宗次郎さん)、丸大の一衛ちゃん(新井一衛さん)の四人を呼び寄せて、「学校の記念樹になるような木をどこかで見つけてくれないか」と頼みました。
その頃、村にはたくさんの同性の家々があり、名前の上に屋号を付けて呼び合い、屋号の下に名前がつくのが普通のように思われ、それが自然に大人となってもその呼び名が使われていたものでした。
北入曽常泉寺の寺街道沿いに、いつごろか権現様が祀ってあった関係なのか、そのあたりの家々の呼び名の上に必ずといって権現がつき、権現堂の誰々さんというように新井七郎さんも、権現堂の新七ちゃんと呼ばれていました。四つ角に家があることで宮野政吉さんは、角の政ちゃんと呼ばれ 宮野宗次郎さんも又、北入曽で一番高い所に家があり、前も隣も宮野性であったので自然に高見の家と呼ばれ、子供たちは高みの宗ちゃんと呼びあって遊んでいました。新井一衛さんは、ご先祖の新井代助爺さんが明治の初め頃、代助の代を大きくと願いを込めて、大にかえて丸の中に入れた丸大という屋号で仕事をしていたので、誰ということなく丸大の一衛ちゃんと呼ぶようになり、いまでも大人の会話の中に時折耳にすることがあります。その四人は喜んで、半兵衛山(現入間基地内の昔の山林の呼び名)道沿い近くの汽車道を抜け、丸大の山を目指して飛んで行きました。
いがぐり頭の小さな四人は、「あれはどうか。これはどうか」と、山中をかけずり廻って探しているうちに、新七ちゃんが、私を指差しながら「このけやきはどうかなあ」といいました。
みんなも賛成、さっそく私は掘り出され、四人にかつがれて一路学校へといそぎました。
私を見た校長さんはおお喜び、そして増築校舎の敷地用に土を取った時の大きな穴のそばに、私は植えられました。その時の私は、背丈が約三メートル、太さは湯のみ茶椀ぐらいの子供でした。
あたりを見渡すと、北がわにガラス窓の校舎があり、所沢街道に平行して剣道場と農業教室があり、教室のうらがわから街道まで広い生徒たちの農業実習地が、お寺の山門を背景に広がっていました。
私は一人ぼっちになった淋しさで、幾度か涙を流すこともありましたが、いつのまにか元気な子供たちの歓声に元気づけられてきました。
それに春ともなれば、金剛院の山門付近には見事な桜が咲き、秋を迎えると獅子舞の美しい笛の音色が聞こえ、私を励ましてくれました。
年を経るうちに、自分でも驚くほど大きくなり、子供たちは木登りをしたり、私を囲んで遊技をしたり恰好の遊び相手となって、一緒に暮らす楽しい日々となりました。時には、卒業生たちが訪れて、私に話し掛けたりしてくれるようになりました。子供たちが病気や怪我で休んだりすると心配になったり、大正十二年の関東大地震では、校舎が壊れるのではないかと驚いたり、長い間にはいろいろなことがありました。
なかでも、私はあの太平洋戦争の悲惨な出来事は今でも忘れることができません。この学校からも大勢の卒業生が戦地へと出陣していまだ帰らぬ卒業生もいます。ことに昭和二十年七月十日の空襲では、小久保好蔵校長先生(川越在山田村出身)が校舎の玄関を出たところで弾に当たって亡くなられました。この大きな犠牲と悲しみは、今も深く心に焼きついて離れません。只、ひたすら手を合わせるのみです。
私がこの地に根をおろして七十余年。島崎先生をはじめ元気者だったあの四人の生徒さんも、すでに今は他界されてしまいました。「ご冥福を祈ります」
私をここまで育ててくれた歴代の先生方や地域のみなさん、仲良しになったみなさんに感謝しながら、この大地にしっかりと根をはり、元気な子供たちやみなさんの幸せを永久に見守っていきます。
みなさん いつまでも私を可愛がってください
平成三年八月十五日